今回は規模の大きい作品で、登場人物もふたり、オーケストラの伴奏があって、「劇的カンタータ」とも呼ばれます。 「この国は自由になったぞ!<アポロとダフネ>」(La terra è liberata!<Apollo e Dafne>)HWV122 この作品の作詞者(名は不明)は、ギリシャ神話のエピソードに題材を取っています。 太陽の神、音楽や弓術の神ともいわれるアポロがニンフのダフネに恋をしますが、ダフネはそれを嫌って逃げます。アポロにあわや捕まりそう、という瞬間にダフネは木(月桂樹)に変わってしまいます。 このお話は有名なものなので、材料として使えるテキストは少なからずあったということです。例えばオーヴィッド(Ovid)という人の「Metamorphoses」など。これには「エイシスとガラテア」の話も一緒に載っているそうです。「エイシスとガラテア」では男性のエイシスが泉に変身しますが、この「アポロとダフネ」では女性のダフネが月桂樹に変わることになります。 1710年にハノーファーで作曲、とされています。しかし実際はその前、ヘンデルが1709年にヴェネツィアを訪問していた頃から作曲はスタートしていて完成したのがハノーファー、ということらしいです。 カンタータとしては演奏時間が長く、40〜45分程度かかります。 なお、この記事には歌詞も含めてギリシャ神話の登場人物の名前がよく出てきます。 ギリシャ神話の人物はギリシャ名、ラテン名、それらの英語表記など同一人物でも異なった名前を持っています。「ゼウス」も「ユピテル」も「ジュピター」も同じひとですね。 この作品の主人公もギリシャ名だと「アポロン」、ラテン名なら「ポエブス」です。 昔、登山やキャンプ用のガソリンこんろに「ホエブス」というブランドのものがありました(今でもあるかな?)。これは英語表記「Phoebus(フィーバス)」を使ったものですね、あるいはドイツ語表記の「Phöbus」からかも。アポロは太陽神で、熱やエネルギーの申し子であるところから名づけられたものでしょう。 表記をギリシャ名のみやラテン名のみなどに統一してしまうと、よく知っている神様でもなじみのない名前になって、誰だかわからなくなることがあります。よってこのサイトでは表記はごちゃまぜになっても、最もよく知られた名前で表すことにします。Aのひとはギリシャ名、Bはラテン名、Cの名前はいずれかの英語表記ということもありえます。 とりあえず歌詞の大意を掲げます。 楽章ごとの番号は当サイトで勝手に付けたものですが、スタンデージ盤CDのトラックナンバーと一致しています。 @<レチタティーヴォ> アポロ この国は自由になったぞ! ギリシャは恨みをはらした! アポロが勝った! わが国民の多くを死なせ、悲しませた 虐殺とテロの後、 ピートーンはここに倒れている、この手でやったのだ。 アポロは勝った! アポロの勝利だ! A<アリア> アポロ 世界は幸せになった、 この強力な弓によって。 地上に俺への称賛を響かせてくれ、 元気の源を 皆を守ったこの腕に集めてくれ。 世界は幸せに・・・(ダ・カーポ) B<レチタティーヴォ> アポロ 生意気なチビのキューピッドを この力強い矢で降参させよう。 ヤツの運命の金の矢とやらを もう誇りにさせないぞ。 たった一頭でもピートーンの方が 愛の矢で射抜かれて夢中になっている 千人の恋人たちよりまだましだ。 C<アリア> アポロ 弓なんか折っちまえ、矢なんか捨てちまえ、 暇人のお遊びの神よ。 どうして俺を傷つけることができるなんて思うのか、 この裸ん坊の目隠し小僧は? 弓なんか・・・(ダ・カーポ) D<アリア> ダフネ 一番幸せなことは 自由だけを愛する魂があることよ。 心の自由がないところには 平和もないし静けさもないわ。 一番幸せなことは・・・(ダ・カーポ) E<レチタティーヴォ> アポロ なんとすばらしい声だ! なんと美しい! この音色、この姿で虜にされてしまう。 ああ、美しいニンフだ。 ダフネ エーッ、どうしたの? 私を驚かしたのは誰? アポロ これでも神です、 君の美しい姿で目が覚めてしまった。 ダフネ この森ではディアナ様以外の 神様なんて存じません。 近づかないでください、よその神様は。 アポロ 僕はディアナの兄だよ、 妹のことを敬っているのなら、君を大好きになった 僕のことも少しは考えてよ、ねえ、かわいこちゃん。 F<アリア> ダフネ 私を求めても、好きになっても、願ってもみんな無駄です、 ディアナ様だけに忠節を誓っているのだから。 お兄様の恋心に対しても 冷たくすればお喜びになるわ。 私を求めても・・・(ダ・カーポ) G<レチタティーヴォ> アポロ 冷たいなあ! ダフネ しつこいわよ! アポロ この憂き目は絶対晴らすぞ。 ダフネ 私は絶対逃げ出すわ。 アポロ 恋しい思いで焦がれているよ。 ダフネ 私は怒りで燃えています。 H<デュエット> ふたり 心の中が煮えたぎっている もう耐えられない。 アポロ かっかしたり、ひやっとしたり。 ダフネ はらはらしたり、いらいらしたり。 ふたり この熱をさまさないと 平和は決してやってこない。 I<レチタティーヴォ> アポロ ああ、落ち着いて、君。 僕が夢中になっている君の美しさは いつまでもあるわけではない。 最高の自然の創造物だって色褪せ、 長続きはしないのだ。 J<アリア> アポロ 薔薇の花が すぐ咲きすぐしぼむように、 思ってもいなかった速さで 花の美しさはなくなってしまう。 薔薇の・・・(ダ・カーポ) K<レチタティーヴォ> ダフネ ああ!神様なら神様相手に 恋をなさったらいいのに。 あなたをひきつけた魅力なんか 吹けば飛ぶようなもの、すぐなくなります、 だけど私を守ってくれている徳はそうではないわ。 L<アリア> ダフネ 天にある海神の星が 荒れた海を静めるように、 正直で立派な心の中では 分別で恋の気分がおさえられる。 天にある・・・(ダ・カーポ) M<レチタティーヴォ> アポロ 僕の分別も聞いてくれ! ダフネ 聞くつもりはありません! アポロ 君は雌熊か雌虎のようだ! ダフネ あなたは神様でないみたい! アポロ 恋を貫かせてくれ、 さもないと僕の力を思い知るぞ。 ダフネ あなたのしつこい熱も 冷ましてしまう血が私には流れてる。 N<デュエット> アポロ 頼む!お堅いことは言わず 融通を利かせてくれ。 ダフネ 名誉を無くすくらいなら死んだ方がましよ。 アポロ 頼む!もう怒るのはやめてくれ、 ああ、僕の可愛いひと。 ダフネ 名誉を無くすくらいなら死んだ方がましよ。 O<レチタティーヴォ> アポロ いつも君を想っている! ダフネ いつもあなたを嫌悪してます! アポロ 君は逃げたりしないよ! ダフネ いいえ、必ず逃げます! アポロ 僕は必ずついて行くよ、追って行く、 すぐ後から飛んでいく。 君が太陽より速い ということはありえない。 P<シェーナ> アポロ さあ急いで走ろう。 さあ腕で抱き締めよう、 あの頭にくる美女を。 彼女に触る、彼女をつかむ、 彼女を捕らえる、この腕の中に捕らえる・・・ えっ、これは何だ? 何を見ているのだ?目にしているものは何だ? なんと!不思議な!信じられない! ダフネ、どこにいるんだ?見つからない。 どんな奇跡が君を連れ去り、変え、 隠してしまったのか? 冬の冷たい霜も 空から落ちてくる雷も 清らかで輝くように茂るこの葉を傷つけませんように。 Q<アリア> アポロ 最愛の月桂樹だ、僕の涙の水で いつまでも青々とさせてあげる。 君の栄光の枝で 偉大な英雄たちの頭を飾ろう。 もし君がわが心の中にいつづけることができなくても ねえ、ダフネ、せめて 君を私の額に飾っていたいな。 最愛の・・・(ダ・カーポ) このカンタータの歌が始まる前に次のような出来事がありました。 そのころギリシャではピートーン(ピュートーンとも、英語ではPythonパイソン)という怪獣が暴れて、ひとびとを困らせていました。もともとこの怪獣はジュピターの妃・ジューノーがアポロの母・レトーを悩ませようとして送り込んだものです。アポロはジュピターとレトーの間にできた子なので、例によってジューノーが嫉妬していやがらせをしたのですね。 レトーのみならず周辺の住民にも多大の迷惑となっていたところ、アポロがその強力な弓を用いてやっと退治できました。 その直後の時点からこのカンタータはスタートするので、開口一番「この国は自由になったぞ!」、なのです。 アポロも@とAのレチタティーヴォとアリアだけにしておけばいいのに、BとCでキューピッドをからかいます。これは全く余計なことをしたもので、このために悲劇が生じたと言えるのです。 キューピッドだって、あんなこと言われ黙って引き下がっているタマではないので、「おぼえてろよ」ということでリヴェンジを図ったのです。 ダフネがDのアリアを歌っている頃合に、彼はアポロに金の矢を、ダフネに鉛の矢を打ち込みました。金の矢で射抜かれると恋に狂うようになるし、鉛の矢で射抜かれると恋を嫌い逃げ回るようになる、という効果があります。 正面切って説明されていませんが(18世紀、ヘンデルの音楽を聴こう、というひとなら誰でもわかっていること)、裏にはこういう事情があるので、アポロの悲劇も自分で撒いた種、仕方がないのです。 Eのレチタティーヴォの会話に出てくるディアナはアポロの妹で月の女神です。兄は太陽、妹は月、というわけですね。ディアナは同時に狩りの女神でもあります(狩りの女神としてのカンタータ記事はこちら)。 ここでダフネが「この森ではディアナ様以外の神様なんて存じません」と言うところは原詞も「Diana」ですが、その後のアポロのせりふ「僕はディアナの兄だよ」のディアナは、原詞では「Cintia」(英語表記ではCynthiaシンシア)と別名が使用されています。次のFのダフネのアリアでもCintiaと呼んでいます。 チンティアはディアナの別名で、ディアナが生まれたというデロス島のキュントス山(Mt.Cynthas)に由来する名だそうです。 ディアナは他にもギリシャ名では「アルテミス」と呼ばれます。 OからPにかけてダフネは逃げ、アポロは追う、という追跡劇となります。この間、これも歌詞にはありませんが、ダフネは自身の父親に助けを求めます。 走りながら「パパ、今ストーカー行為されているの、助けて」などと連絡したのでしょう。 父親というのは、河の神のペネイオスです。親が河の神で水に関係あるため、Mで「あなたのしつこい熱も冷ましてしまう血が私には流れてる」というせりふになるのです。 ぺネイオスは最愛の娘をストーカーなどに渡してなるものかと、とっさにダフネの身体を月桂樹に変えてしまったのですね。 なおPの<シェーナ>というのは「劇的な迫力ある独唱」という意味があります。「劇唱」と訳されることもあるようで、アリアのようにはそれ自体で完結していなく、叙述的というか説明的なものです。 終曲のアリアはアポロの意気消沈したさびしげな調子で歌われます。身から出たサビとはいえ、ダフネを失った悲しさが伝わってきてホロリとさせられます。AやCのアリアにある威勢の良さは全くなくなってしまっているのです。この大きな落差を味わうのもこの作品の聴き所のひとつだと思います。 アポロとダフネのエピソードをテーマにした美術作品も数多くあります。 私が最高だと思うのは、なんといってもベルニーニの彫刻です。 イタリアのアーティスト Gian Lorenzo BERNINI(1598−1680) の作品「Apollo and Daphne」。 両手の先と足の一部が木に変わりつつあります。 大理石とは思えないほど身体の柔らかさが表現されていますね。私はまだ本物を見たことがありません。ローマのボルゲーゼ美術館にあるそうですが、いつかは一度見てみたいものです。 こちらはスタンデージ盤CDのブックレット表紙に使われたものです。 イタリアの画家 Antonio del POLLAIUOLO(1432−1498)の「Apollo and Daphne」。 これは両手がすでに大きな木になっており、かなり変化が進んだ様子です。 もうひとつ、こちらはマギガン盤CDブックレットの表紙のものです。 イタリアの画家 Giovanni Battista TIEPOLO(1696−1770)の「Apollo and Daphne」。 手前のこちらに背を向けているお爺さん(筋骨隆々ですが)は、ダフネの父親ペネイオスです。櫂を持っているので、河の神だとわかります。キューピッドもいて、ダフネを少しでもアポロから遠ざけようと試みているみたいですね。 すなわち、この事件の関係者全員がそろった絵です。 ダフネの右手の指先のみ月桂樹に変わり始めたところで、変化のごく初期の状態を示しています。 この作品の音楽の転用関係を表にまとめておきます。私自身で確認できたものだけです。 表の他にCのアポロのアリアはオペラ「ロドリーゴ」HWV5から、Nのデュエットはオラトリオ「復活」から、それぞれ転用され、Dのダフネのアリアはオペラ「ムツィオ・シェーヴォラ」HWV13に転用されたそうですが(マギガン盤の解説)、実際に聴いてみてもよくわからなくて、確認できませんでした。 また他にFのダフネのアリアは「カルロ6世のためのカンタータ」HWV119に、Lのダフネのアリアはオペラ「シッラ」HWV10に、それぞれ転用されたとも書かれていますが(同上)、音源を持っていないので確認できていません。 表をクリックすると拡大できます。 参照した資料 CD 1.デイヴィッド・トーマス(バス、アポロ)、ジュディス・ネルスン(ソプラノ、ダフネ)、ニコラス・マギガン(指揮) フィルハーモニア・バロック・オーケストラ 「Haendel Apollo e Dafne」harmonia mundi U.S.A.905157(1985) 2.マイケル・ジョージ(バス、アポロ)、ナンシー・アージェンタ(ソプラノ、ダフネ)、サイモン・スタンデージ(指揮、vn) コレギウム・ムジクム90 「HANDEL Apollo e Dafne」CHANDOS Early Music CHAN0583(1994) 書籍 1.21世紀研究会編「人名の世界地図」文春新書(2001) 2.串田孫一「ギリシア神話」ちくま文庫(1990) 3.ELLEN T. HARRIS「Handel as Orpheus」HARVARD UNIVERSITY PRESS(2001) |
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最後のアリアの詩はなかなか泣かせますよね。 |
REIKO URL 2012/05/26 15:15 |
REIKOさん |
koh da saitama 2012/05/27 14:14 |
トラックバックさせてもらいます! |
kibunom 2012/09/26 10:42 |
…と思いましたが、アメブロではトラックバックが廃止になったそうです。 |
kibunom URL 2012/09/26 15:45 |
kibunomさん |
koh da saitama 2012/09/26 19:33 |
こんばんは。 |
そらみみ URL 2012/10/28 22:43 |
そらみみさん |
koh da saitama 2012/10/29 19:25 |
昨日は、『ルクレチア』でお世話になりました。今日は『アポロとダフネ』を貴ブログのご指南のもとに鑑賞しました。私はクラシック歴は長いのですが、ヘンデルには極めて邪道な入り方をしました。最初、Kirkubyから古楽、バロックと入り、それまでヴェルディやワーグナーでの歌唱しか知らなかったので、衝撃をうけました。その後女性歌手の歌声に、まるで女優を見るような感じで、歌手中心にその分野を猟盤していました。その途上で、ヘンデルの『Delirio Amoroso』(Dessay,Zadori)に出会い、ヘンデルの過激なまでに官能的な歌の中毒になってしまいました。歌劇ものでは60種近くCD確保。ソプラノのK.Gauvinの盤でこのカンタータを鑑賞。(今はGauvinが私のDiva)『Dorianレーベル』『Les Violons Du Royオケ』『B.Labadie指揮』『R.Braunバリトン』。ご指南による成果:@何故、「威張って」アポロが勝利したと宣言したか。その余勢にかってキューピッドを挑発したA歌詞のDのところで、キューピッドがそれぞれ、金と鉛の矢を放っていることBその多、神話に基づく歌詞の解説。これらを予習してからの鑑賞で、深く曲想や歌唱の変化が理解できました。ホントにアポロの豹変ともいうべき、歌唱の変化がこのカンタータ鑑賞のツボですね。威張りくさった自信家=>とろとろの恋におちた=>口説きと焦り=>ダフネを失った悲しみ。本当にカンタータって、その作品の文化的背景やその後の芸術.文化との関連を理解して、曲の鑑賞に深みがでますね。今後もこのWebのご指南のもとに、手持ちのヘンデル.カンタータを鑑賞させていただきます。また、歌劇物へのこの曲の転用もこれから、それらを再聴する時の発見の楽しみです。貴Webの文化性とインテリジェンス!ありがとうございました。 |
ヘンデル大好き 2013/09/17 14:17 |
ヘンデル大好きさん |
koh da saitama 2013/09/17 20:19 |
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スコットナット様 |
koh da saitama 2017/01/05 11:45 |
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